アナルコ・キャピタリズム研究(仮)
MiniBlog 060105-060129


06/01/29 ミリオンダラー・ベイビーを見た。シンプルなリバタリアン映画である。生も死も自分で決める。

いくつかのリバタリアン・ポイントがあるが、ここではひとつだけ紹介しておく。 主人公はアメリカの貧困層の女性。13歳から31歳の今までウェイトレスとして働き、 つまらない人生を送ってきたが、ボクシングに生きがいを見いだし、 やがて自助努力と老トレーナーの少しの支えによって大金を手にしていく。

彼女はスラムに住む家族に家をプレゼントする。 母親は喜ぶかと思いきや、政府に見つけられて生活保護が止められる、現金をくれればよかったのにと逆に怒り出す。 彼女は生活費も送ると言うが、母親は何の感謝もしない。 このシーンは、国家の福祉制度が間違ったインセンティブを与え、(家族を壊しながら)非効率な結果をもたらすことを描いている。


06/01/26 少しだけ昨日のことに注釈をつけておくことにする。

  • コストとはいつでも機会費用のことである。 機会費用とはあきらめなければならない最大価値のことである。 お昼にそばを食べるコストはたしかに500円である。 だが忘れてはならないことは、このときうどんを食べるのをあきらめているということである。これが真のコストだ。 コストのことがまるで頭にないということは価値についても頭にないということである。 そば屋を開いている人はラーメン屋を開くのをあきらめている。 消費でも生産でも政策でも法律でも経営でも人生でも、何にしても選択にはいつでもコストがともなう。

  • インセンティブとは人の動きを作り出す誘因のことである。 経済学はインセンティブに関する学問である。 たとえば価格は一つのインセンティブである。 そして人々はある場合それに基づいて行動する。 他人の行動は何でもインセンティブを作り出す。 世の中にはさまざまなインセンティブがあり、 インセンティブによってあらゆる均衡が形成される。 (価格理論はゲーム理論の特殊ケースである。)

  • 国家や政府は行動しない。便宜的にそれらを行動主体であるかのように言うことはあっても、真の行動者は個人であり人間である。 利得を得るのは個人だ。 もし国益とか社会の利益とかいうものがあったとしても、それは個人の利得の総和である。 国家や政府を怪物や悪魔のように言うことがあっても、それはただシステムを問題にしているのである。 真に動いているのは個人だ。 国家や政府あるいは企業や社会といったものは個人の行動・絡み合いから出てくる「フィクション」「現象」「見かけの値」のようなものでしかない。


    06/01/25 ブログの普及でたくさんの人の国家・社会に対する(まとまった)考えを見る ことが多くなったが、管理人はその中で経済学を学んだことがない人をすぐに見抜くことができる。一種のスキルあるいはマジックである。

    種明かしを結論から書こう。下の3つの条件のいずれかを満たしていればよい。

  • コストのことがまるで頭にない
  • インセンティブのことがまるで頭にない
  • 個人のことがまるで頭にない

    最初の2つは特に注釈を要するし、実際これが経済学そのものであるので ここでは説明をしないが、 コスト・インセンティブ・個人、(経済学という名前はついているが) 思考にこれらのどれが欠けても よい政治家あるいは官僚あるいは経営者になれない。 (政策と経営はほとんど同義語である。) それどころか普通の人間としてよい人生設計ができないし、 ふだんの生活もうまくいかない。 逆にコスト・インセンティブ・個人のすべてが考慮されている場合、 管理人はどんなことでもなるほどと思う。 経済学は常識的なことを完全化したものである。

    多くの人が経済学を学んだことがないといっても、そのレベルや理由はさまざまだろう。 学んだことはあるが身についていない、最初から馬鹿にしたり興味がない、 文系にカテゴライズされているのに並の理系より数学を使う、などなど。 (ところで合理的・利己的個人の仮定だけを攻撃するとそれは一つのシグナルになる。)

    ここで管理人がいう経済学とは価格理論とゲーム理論の二大柱からなる、いわゆるミクロ経済学のことである。(これはマクロ経済学を含めたすべての応用経済学の基本となる。)社会科学でミクロ経済学ほど理論的・実証的にすぐれたものはない。 2単位とか4単位しか与えられないので軽視あるいはスルーされがちであるが、 ミクロ経済学は本来20単位、40単位を与えられていいほど中身の濃いものである。

    要は個人のインセンティブと豊かさの問題である。 管理人はこれをずっと考えているうちにアナルコ・キャピタリストになった。 リバタリアニズムや市場あるいは経済学を表層的な理解に基づいて批判している人たちは多いが、これらのことを防衛したり逆に啓蒙するのがこのサイトの使命である。


    06/01/16 六本木ヒルズにはホリエモンの会社とともにその住まいも入っているという。 施設にはその他何でも揃っている。警備も相当なものだろう。 これをさらに武装化すると無政府国家が誕生するはずである。 武装化した六本木ヒルズのようなものが東京じゅう、日本じゅうを割拠する。 (中では適当にルールが定められて裁判所も置かれる。) ―――無政府資本主義社会の一つのイメージである。


    06/01/14 L@JでPierre Lemieuxのタバコに関する文章が引用されていた。 後半部分は「百害あっても百利以上あるから吸う」と要約できる。 (ちなみにLemieuxはアナルコ・キャピタリスト。絶版だが日本語に翻訳された入門書があって、それはコンパクトで読みやすい。)

    社会主義的な医療制度のもとでは、たしかに吸う人が吸わない人へ負担を押し付ける。 しかしこういう外部性は他のいろんな快楽行為にあてはまるので、 タバコだけ問題にするとスモーカーたちの反逆にあい、それはいろいろな悪者探し・差別合戦につながることになって、やがて世の中は抑圧された空気で満たされたファシズム的社会へと移行する。(各種の規制と課税が容認される。)

    唯一問題となりうるのは、一般の空気が公共のものになっていることによる外部性だけである。歩きタバコはたしかに他人を危険にさらす。 しかしこの場合でも正しい公共政策というのは 「喫煙者のプラス」を考慮に入れたものでなければならない。 一般的に、外部性問題の解決は新しい外部性問題を生む。 (何かをきれいにするためには何かを汚さなくてはならない。) いつも新しく発生するデメリット(コスト)を考え、 外部性はけっしてただでは解決されないことをつねに念頭においておく必要がある。

    (管理人の見立てによると、歩きタバコより歩道を飛ばす自転車の方が危険である。 あと外で歩きながら吸っている人が多くなったのはタバコを吸う場所がなくなったせいである。わずかに残された喫煙コーナーはどこでも異常に人が多く、とても不快な空間になっている。)

    ところで公共の場所での喫煙について、人々はいつも法的規制やマナーのことを議論するが、これはとても社会主義的である。 法制化や社会的規範の変化を訴えるより、あらゆるもののプライベート化を訴えるのがリバタリアン・スタイルである。

    たとえばレストランやバーでの喫煙者への対処の仕方は店が決めるのが当然だと考える人は多いだろう。 プライベートスペースでは、空気の所有者はその場所の所有者であるとするのが普通であり、それは合理的で効率的なことである。


    06/01/10 宇宙への移住。アナルコ・キャピタリズムを実践し実現するための、いちばん手っ取り早く現実的な手段になるかもしれない。(ITmedia ニュース:Amazon創設者の宇宙計画、いよいよ始動へ

    The Machinery of Freedomでも紹介されている小説、ハインライン『月は無慈悲な夜の女王』より。「無料の病院……月世界にはないですね。」 「医療保険……ぼくらにもありますが、あなたがたの言われるものとは明らかに違います。」 「公共図書館はあります、カーネギー財団というのが僅かな書籍フィルムで始めたんです。料金を取って運営していますよ。」「公共の道路。それはぼくらの地下鉄に相当するのでしょうな。だがそれは空気が無料でないように無料じゃありません。」 「公共の学校。あらゆる居住地には学校があり、(略)、それに対しても充分の金を支払います。」 「社会福祉制度。それが何なのかぼくにはどうもはっきりわかりませんが、何であれ、ぼくらにはありませんね。」「年金。年金を買うことはできます。ほとんどの人はそんなことをしませんが。」


    06/01/09 成人の日。沖縄のある村は税収の2/3をただ1世帯から得ているという。(スポーツ報知) ▼Anarchist Theory FAQ (Bryan Caplan)の10. How would anarcho-capitalism work?部分の翻訳が終わった。


    06/01/08 自然で論理的な(=わかりやすい)日本語への翻訳が難しい英文の例:

    Friedman focuses more intently on the possibility of plural legal systems co-existing and responding to the consumer demands of different elements of the population.

    この文には01/05に挙げた点がすべて含まれている。


    06/01/07 アナルコ・キャピタリズムは言うまでもなく、一つのものの見方を提供する。 早朝の繁華街、ブティックなどの入ったピカピカのビルを清掃している人を見て、これが民間の力だとほくそ笑む。アナルコ・キャピタリズムは一つの行動指針さえ与える。 きれいなトイレに入りたいと思うなら、けっして公衆トイレを探すべきではない。


    06/01/06 AnarCapLib インドのアナルコ・キャピタリスト。L. Neil Smith's Webley Page SF作家のアナルコ・キャピタリスト。


    06/01/05 このサイトでは日本語としてすらすら読める翻訳を心がけているつもりであるが、つねに付きまとう難しさがある。クリアしにくい英語と日本語の根本的な相違点をいくつか挙げると

    (1)日本語には複数形がない。 それゆえ日本語に翻訳された文章は集合論的にはっきりしなくなって、 論理的にあいまいになることがある。(訳者の頭の中ではとうぜん明確に区別しているのだが、日本語単独では必ずしもそうは見えない。)
    (2)日本語には冠詞がない。冠詞もまた集合論的に重要で、英語を論理付けているものの一つである。
    (3)日本語は主語と述語が離れている。(主語が離れすぎていて文中に存在しないことも普通である。) 読みにくい日本語訳はしばしば主語+異常な長さ+述語の形になっている。

    これらのことは逆方向つまり日本人が英語を書く際にも問題になる。


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